2008 年度 卒業論文

 

 

 

 

過疎地の伝統芸能は、今

福岡県無形文化財 直方(のおがた)日若踊を残す地域の努力

 

 

 

 

 

静岡大学人文学部社会学科

文化人類学コース

学籍番号:20510033

坂田 安里

 

 

 

 

目次

 

1        序論··········································································································3

1.1 盆踊とは·······························································································3

1.2 盆踊の広がり·························································································4

1.3 福岡県の盆踊·························································································5

2        調査地概要·································································································6

2.1 直方(のおがた)市概要····························································································6

2.2 市街地概要····························································································8

3        直方(のおがた)日若踊の歴史·······················································································12

3.1 2つのおどり························································································ 12

3.1.1        思案橋―遠賀川流域の唄―································································13

3.1.2        本手―歌舞伎役者による振付―··························································15

3.2 神社の盆···························································································16

4        日若踊の変遷·····························································································18

4.1 担い手たち···························································································19

4.2 変わる配置···························································································21

4.3 衣装の変化···························································································23

4.4 変わりゆく唄························································································24

5        芸能を支える地域社会·················································································30

5.1 変化する人口環境··················································································30

5.2 再出発する古町北区···············································································31

5.3 参加者の多様化·····················································································34

5.3.1        盆踊······························································································34

5.3.2        特別催し物―日若祭(20081018日)―·················································36

5.4 支援者たち···························································································40

6        時代にもまれて··························································································42

 

謝辞··············································································································43

 

参照文献········································································································46

 

 

 

 

 

1 序論

日本全国津々浦々、様々な盆踊がある。昔ほどではないが、幾多の変遷を経て、今でも盆踊は各地で踊られている。

盆踊と盆踊唄について、山近は「盂蘭盆の季節に盆踊をするということは日本にだけある行事である。それで盆踊の唄は他の国にはない。盆踊唄のある事は日本民(うた)の一大特色のひとつとなっている」と述べている(山近 1972)。

 このように盆踊は、伝統的な祭礼行事や民俗芸能であり、民俗文化財の一つとしてみなすことができる。そのため各自治体では、盆踊などの伝統芸能を地域性の表出の一手段とし、地域の活性化を図ろうとする動きが見られる。この背景について大島は、「無形民俗文化財はそれぞれの伝承母体の精神文化を象徴するものであるという象徴性と、無形民俗文化財の持つ現在性などが、文化の多様性の確認を求める動きと相俟って、改めて評価されるようになってきた流があると言うことができるだろう」としている(大島 2007:66)。

 だが同時に、グローバル化に伴い、伝統的な地域社会の存続が危ぶまれている。その結果、地域社会の急速な変化による、伝統芸能の伝承・保護の危機、伝統芸能自体の存続の危機が懸念されている。この原因を大島は、伝統芸能や祭り・行事なども行為そのものが単独で評価され保護されていることにあると、指摘している(大島 2007:81)。つまり今までは、伝統芸能そのものの重視だけに留まり、それを支える地域共同体などの伝承集団の存在と継続に関わる問題については、直接的な保護対象外であるとされてきた。そのため、伝統芸能の保護が難しくなっていたというのだ。

 このことは、地方に伝わる民俗文化の伝承危機により顕著に見られる。それは踊りという保護対象そのものの問題ではなく、それを成立させる地域社会の存続が危機に陥っているという大きな問題が横たわっているためだ。逆に言えば、伝統芸能が活発に存続している地域では、地域独自の工夫や集団努力がなされていることになる。

 本論文では、地域社会の存続の危機に直面しながらも、伝統芸能を伝承していこうとしている具体例を検討してみる。対象とするのは、九州福岡県の福岡市と北九州市という政令指定都市に挟まれ、衰退の一途をたどっている、筑豊地方の盆踊である。その中でも、過去筑豊の中心として栄えた直方(のおがた)市、そこに継承されている盆踊に焦点を当て、人と踊りの関わり方の現在を考察する。

 

.1 盆踊とは

 盆踊にはある種のイメージが付きまとう。それは、櫓を中心に、人々がその周りを輪になっておどり、櫓の上では太鼓が演奏され、またはスピーカーから音楽が流れるというものではないだろうか。一般的に「盆踊」とは、「手踊りの芸能で輪踊や列踊、巻踊の隊形をとるもの」を盆踊という場合が一般的である(大森 1998)。ここで挙げた一般イメージは、輪踊の一つの形態である。広義では、新精霊(新仏)の供養を主な目的とし、盆の期間に演じられる風流(ふりゅう)太鼓踊や風流(ふりゅう)踊のことを言う。

この風流(ふりゅう)とは、平安時代以降に和歌や漢詩、物語などの心を表現した風情ある造り物(意匠)のことである。趣向を凝らした造り物や仮装、物真似、囃子(はやし)(拍子)物などをいうが、後世ではもっぱら踊りそのものを指すようになった(大森 1998)。さらに大森は次のように述べる。「風流(ふりゅう)という芸能は、田楽や猿楽などのように芸態がはっきりした芸能の種類を呼称するものではない。つまり風流(ふりゅう)系芸能の特色は、人の目を驚かせる趣向、創造性にあり、型の継承に関しては皆無といっても過言ではない。修練による型の継承を拒否したところに風流(ふりゅう)の生命力がある。素人がそれぞれ工夫を凝らすことによって、風流(ふりゅう)芸能は成り立つのである」(大森 1998)。

つまり盆踊とは、型が決まっているとは言い難い風流(ふりゅう)という芸能を盆に踊る、風流(ふりゅう)踊の一つなのだ。それにもかかわらず、今日各地の「盆踊」は文化財として「保存」され、伝承されているものが多い。

 

1.2 盆踊の広がり

盆に風流(ふりゅう)踊が行われるようになった時期について、山路は、

 

「死者供養として念仏踊は、空也、一遍などを祖とする念仏聖によって早くから行なわれていたが、共同体が自分たちの手で先祖供養のために踊りを行なったのは、中世後期以降と考えられる。その姿は念仏(ねんぶつ)拍物(はやしもの)として見え、まだ踊りとはいえず、風流(ふりゅう)の拍物(囃し物)を転用し、念仏で囃したところに特色があった。16世紀に入ると、京都を中心に地方の郷孫へも伝播した。この時期の踊りは盂蘭盆会(うらぼんえ)以外にも踊られ、一般に風流(ふりゅう)踊の名で呼ばれる」(山路 1991

 

江戸時代に入り自由な気風が薄らぐと、大がかりな風流(ふりゅう)や新しい趣向がなくなり定型化が進む。伴奏楽器に三味線が加わったことにより、歌も近世流行歌(はやりうた)に変わるが、さらに江戸時代後期には7775調の民(うた)や俗(うた)、浄瑠璃口説、祭文などが盆踊歌の主流となり、踊りの手も繰り返しの多い単純なものへと変化して風流(ふりゅう)の趣向も見られなくなる(山路 1991)。

山近は盆踊について「盂蘭盆(うらぼん)1300年の古い歴史を持っているものである。しかし盆踊の形の整ったのは室町時代か豊臣秀吉の頃と見られるが、全国的に広まったのは江戸時代である。そうすると約400年位になる。明治時代には盆踊が盛んであった。それは大衆の娯楽が貧しかったためであろう」(山近 1972)と述べている。

つまり、盆踊が全国的に広まったきっかけは、参勤交代が行なわれることで交通が整備されたことにある。街道を通って、役者が行き来し、人から人へと流行の歌が広がった。これらとともに、踊りも広がっていったのだ。江戸時代、流行として伝わった風流(ふりゅう)は、地域ごとに形を変えて根付き、明治時代には伝統として、地域のアイデンティティの一つとして成立した。それらは現在、無形文化財として、保存されているものも少なくない。

 

 

1.3 福岡県の盆踊

調査地である福岡県へは盆踊がどれくらい伝わっているのだろうか。以下は、福岡県民俗芸能として調査されたものから、盆踊の値を抜粋したものである。この中では大きく、神楽、田楽、風流(ふりゅう)、語り物、舞台芸・渡来芸、見せ物・その他と分類されている。神楽はさらに @神楽 A獅子舞に、風流(ふりゅう)は @太鼓踊り A盆踊り Bその他の風流(ふりゅう)踊り Cつくりもの風流(ふりゅう) D行列風流(ふりゅう) E祭り囃子(はやし)、舞台芸・渡来芸は @能・狂言 A人形戯 B歌舞伎 C渡来芸 に分かれる。この分類は、福岡県の民俗芸能(総説)により、盆踊は風流(ふりゅう)の一つとされている。

表中の(ちく)(ほう)地方とは、現在の飯塚市・()()市・嘉穂(かほ)郡・直方(のおがた)市・宮若市・鞍手郡・田川市・田川郡にあたる。この表では、1970年代まで筑豊に組みこまれていた中間市・遠賀郡を含めている。地名の由来は、筑前国豊前国の頭文字をとったものであり、明治時代以降、石炭資源を背景にして新しく生まれた地域区分である。

1を見ると、筑豊地方には、福岡県全体にある盆踊の6割を占めており、その約半数が直方(のおがた)市のものとなっている。また、直方(のおがた)市の民俗芸能の内、4分の3は盆踊となっている。

 

1 福岡県民族芸能の中の地域別に見た盆踊の数

地域

盆踊り

民俗芸能

福岡県

42

304

筑豊地方

27

94

直方(のおがた)

12

16

出典:『福岡県の民俗芸能』福岡県民俗芸能種別一覧表より作成

 

 以上より、盆踊は直方(のおがた)市の地域アイデンティティの一つであると考える。直方(のおがた)市で有名なのは、「直方(のおがた)日若踊」「植木の三申踊」の二つあり、どちらも県の無形民俗文化財に指定されている。だが本論文では、直方(のおがた)市の中心地として江戸時代から栄えていた市街地を調査地とすることとし、そこの盆踊「直方(のおがた)日若踊」を取り上げている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2 調査地概要

2.1 直方(のおがた)市概要

直方(のおがた)市は、福岡県の北部、筑豊地方の北端部に位置する。東西11.56km、南北9.45km、その面積は61.78kuであり、人口は約6万人の市である。この地域は、福岡県北部を南から北に流れる遠賀川の中流域であり、(ひこ)(さん)川・嘉麻川の2大河川の合流地点でもある。この川は水運に利用されていた歴史がある。本市の東部には福智山(900.8m)を主峰にその支脈(平均標高600m)が南北に走っている。西部には六ヶ岳(むつがだけ)339.0m)の丘陵が北西に広がり、中央は、比較的平らな地域である。

遠賀川を境にした西部地域は、江戸時代から続く市街地が形成されている。近年は北九州市と福岡市のベットタウンとして駅前にマンションが立ち並んでいる。東部は新興住宅地が広がり、団地が立ち並ぶ。南部地域は工業地帯、北部地域は農村地帯が広がっている。今回の調査地は、西部の市街地である。

 

資料1 直方(のおがた)市の位置

HPhttp://www.gotochitsu.jp/imgs/kentei/map/ky_001m.jpg

http://c2i.msn.co.jp/Travel/images/s/prefmap40.gif

200918日参照及び、作成

図1、2は、全国と調査地である直方(のおがた)市の、男女別年齢別人口である。直方(のおがた)市の男女別人口は、男性27,569人、女性31,354と、女性の割合が多く、80代以上では女性が男性の2倍近くが住んでいる。二つを比較すると、直方(のおがた)市は6080代の女性の割合が多く、20代後半から30代後半の働き盛りの年齢について、男女供に割合が低くなっている。以上から、深刻な少子高齢化が進行していることが分かるだろう。

統計資料からだけでなく、高齢化の進行は市街地の変化にも現れている。かつて、直方(のおがた)市の中心地として栄えた市街地は、多くの店が閉められ、シャッター街となってしまった。だが店舗が閉店した一部では、大きな高齢者向けの福祉施設が出来きており、対高齢者の町として進まざるを得ない現状が垣間見える。

 

 

図1 男女別年齢別人口―直方(のおがた)市― 2008(平成20)年10月現在

出典:「年齢別人口」『直方(のおがた)市の人口と世帯数』(2008101日現在)を基に作成

HP:http://www.city.nogata.fukuoka.jp/gyousei_toukei_setai 20081120日参照

 

 

 

 

 

 

 

 

2 男女別年齢別人口―全国― 2007(平成19)年101日現在推計人口 

出典:「人口動態統計 年報(最新データ、年次推移) 付表」『総務省統計局』を基に作成

HPhttp://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/suii07/fuhyo.html

2008(平成20)年1227日参照

 

 

2.2市街の概要

直方(のおがた)市の西部に位置する市街地は、資料3直方(のおがた)市市街地地図のように遠賀川とJR福北ゆたか線(筑豊本線)との間にある。現在は以前のような活気が見られなくなってしまった市街地ではあるが、江戸から昭和にかけて、遠賀川の水運と長崎街道によって、県内随一の活気が溢れていた場所であった。また市街地には、多賀神社を中心に、多くの寺社が広がっている。

資料2は江戸時代における直方(のおがた)市街地の地図である。江戸時代以降、市街地は北から、古町・外町・殿町・新町に区分されている。この区分は、当時の城下町の形成と関係が深く、それ以降の文化的及び経済的発展は、各々の地域で繰り広げられることになる。

資料23を参考に、市街地の成立を見ていく。

 

 

 

 

 

 

資料2 江戸時代の直方(のおがた)

出典:『直方(のおがた)市勢要覧 昭和53年版』より一部改変

 

江戸時代以前、市街地の中心部である古町は、家が9軒ほど建つのみであった。このような場所が市街地として発展したのは、直方(のおがた)城ができ、常駐する武士の家が立ち並んだことによる。

江戸時代、1623(元和9)年、福岡藩の藩主黒田長政の四男高政が東連寺藩[1]藩主となり、4万石を分領した。1626(寛永3)年、現在の殿町、双林院の位置に居館を造営し、現在の古町・津田町にあたる場所に商家を110軒建て、市を開いて城下の形を整えた。これにより武士の家は現在の殿町にあり、古町には卸売り・小売店が立ち並ぶようになった。資料2の殿町・古町がその地域にあたる。

その後、直方(のおがた)藩は三代まで続いた。しかし、三代目が福岡藩を継いだことから、1676(延宝4)年から四代目長清が藩主となる1688 (元禄1)年まで、直方(のおがた)藩は一時中絶をやむなくされた。

1688(元禄1)年、長清は4万石から1万石足した5万石を分領した。1692(元禄5)年、妙見山に新しい館を造営し、現在の新町の場所に110軒の商家を建てた (直方(のおがた)市 1960)。新町が作られた際、新しい町=新町と呼び、それまでの町を古町と呼ぶようになった。これによって、資料2のように武家屋敷が立ち並ぶ殿町の両側に、古町と新町という二つの町が栄えることになった。

1720(享保5)年、長清の死後、直方(のおがた)藩は廃絶となり、殿町に住んでいた直方(のおがた)藩士は福岡に転出したため空き家が増えた。直方(のおがた)は寂れる一方だった。町の衰退を懸念した古町・新町といった直方(のおがた)町内の商人達は、遠賀川の東岸を通行していた長崎街道を、西岸の町に誘致することを藩に願い出た。

1736(元文1)年、誘致に成功し、遠賀川西岸に船着場ができた。ここから町場までの間が市街地化し、土塁の外側であったため、外新町と呼ばれ、後に外町となった。資料2では、古町の東側にある、渡し場と古町とを結ぶ街道沿いに発展した箇所である。廃藩により、武士相手の商売から、旅行者相手の商売に切り替わったと見られる。

城下町が廃止された後、畑や水田になっていた殿町は、大きく発達した。この時期、西殿町に町役場などの官庁が置かれ、さらに筑豊最大の炭坑である貝島炭坑の本社及び社宅が置かれた。このことにより、周辺には銀行・病院などが集中することとなった。明治期には、炭鉱開発の発展とともに直方(のおがた)がその中心的役割を果たし、商業地としても成長した。この当時の商業の対象は、増加する炭鉱関係者が中心であった。

明治後期には地の利を活かし、筑豊一円の炭坑マーケットと特約する卸売り業者も増加し、古町は問屋街となった。遠く久留米の方まで品物を卸していたという話があるほど、勢いのある町へと成長した。戦時中・戦後の混乱を経て、昭和30年代初頭までは、こうした発展が続き、1957(昭和32)年には、当時九州一の長さを誇る、延長440mのアーケードが作られた(田村 2006)。

現在、市街地は古町北区・古町中区・多賀区・新町区の4つの区に区分されている。資料3を参考にすると、次のようなものである。駅から延びる大通りが古町の始まりとなり、ここが市街地の北端である。古町は資料3のふるまち通りを中心に、長いアーケードのある商店街が形成されている。古町北区と中区はその商店街が二つに分けられたものであり、その境は地図上の「ふるまち通り」のほぼ中央にあたる。北が古町北区、南が古町中区である。その南側、多賀神社から延びた旧多賀町にあたる近辺は、殿町である。過去、武家屋敷が立ち並んでいた地域で、現在は多賀区と呼ばれる。勘六橋より南側、南小学校や裁判所が建つ地域までが新町区となっている。

資料3 現在の直方(のおがた)市市街地 地図

提供:椛田博久(53)さん

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3 直方(のおがた)日若踊の歴史

直方(のおがた)日若踊」は、直方(のおがた)の伝統芸能として受け継がれている。これについて村上は、「由緒古く地方舞踊としては一段の出色を有し極めてしこやかに且つ高雅なものとして世に認められていた」と述べている(村上1928:2)。また半世紀を経た後にも、山近は「日若踊は優雅な踊で情緒にみちみちた歌と節と手振手さばきの美しさは実に九州盆踊の花形で、三百年の由緒の深い歴史的の純真な郷土芸能である」と記述している(山近 1972:190)。

 このように直方(のおがた)日若踊は、地元の人にとって九州随一と言っても過言ではないほど、誇り高い踊りであるようだ。では、日若踊はどのように成立したのだろうか。

 

3.1 二つのおどり

日若踊は、二つの流れがあるといわれている。それぞれを思案橋踊と本手踊と呼び、二つ併せて直方(のおがた)日若踊と呼ばれる。

思案橋踊とは、ある型をくり返し踊る踊りである。ここでは、型を、思案橋おどりにおける一連の手のまとまりとする。2008(平成20)年現在、古町中区や新町では、手の数が明確ではないが、古町北区では七手で一つの型を形成することが正統と見なされている。このように区によって伝承内容に違いはある。しかし、思案橋の唄と伴奏が流れている間、決まった型をくり返し踊ることは、昔から同様である。一般的にイメージされる盆踊は、これに近いものであろう。この踊を踊る際に重要となるのは、伴奏や周りの踊り手に合わせ、全体でそろえることである。

一方本手踊は、歌詞に合わせて手振がついている。例えば古町北区「加賀の千代」を例にあげると、「神さんに頼むの〜」では、拝み手をする。また、「月の船」では船を漕ぐ動作、「多賀の宮」では山の上にある多賀神社を見上げる動作となる。踊る際は、歌詞をよく聞き、その一つ一つの手の意味を考えて踊るようにと言われる。

思案橋と本手の唄と踊りの関係の違いは、それぞれの成立の違いが原因である。資料4は、直方(のおがた)日若踊の歴史を時間軸に沿ってまとめたものである。これによると、起源は多賀神社に伝わっていた日若(うた)・日若舞であることが分かる。これは敬神のための神楽舞であったそうだ。延宝6年、直方(のおがた)侍の一人、大塚次郎左衛門が江戸・大阪に登った際に持って帰ってきた、藩主仰敬思想が入った唄とこの神楽舞が融合し、思案橋となったとされている。盆供養や豊年祭の際に踊るようになったのはこの時期であるようだ。江戸時代末期には、芸能人による振付で、日若踊本手が作られ、踊りは芸能化した。弾圧と復興を経て、現在のような直方(のおがた)日若踊の形で伝わっている。

資料4中に記述されている日若踊音頭とは、1940年代に、思案橋を一般大衆向けに踊りやすく作り変えたものである。復興当時、婦人会を中心に市街地に広まることとなった。しかし今日、日若踊音頭は正統の伝統芸能から外され、思案橋踊と本手踊の二つの踊りのみが民俗文化財として保存・伝承され、残す努力が行なわれている。

 

 

資料4 直方(のおがた)日若踊系統図


出典:「直方(のおがた)日若踊系統図」『直方(のおがた)日若踊』p7より

 

 

3.1.1 思案橋―遠賀川流域の唄−

山近は、思案橋について次のように述べている。

思案橋は筑豊一円に三百年まえから広く歌われている盆踊唄で、植木役者や芦屋役者また遠賀川を上り下りする石炭運送船の「川ひらた船」の船頭等によって伝えられたものといわれている。それで歌詞は同一のものが非常に多い。しかしその踊り方、歌い方は時代の変遷につれ、また地域によって相違している。節はゆるやかで高低が少なく、歌い方は極めて難しい。どの踊も優美でテンポが遅いのが特徴である(山近 1972)。

 

 

 

 このような「思案橋」という盆踊唄が遠賀川流域に伝えられ、分布していることを示すのが以下の遠賀川流域地図である。丸で囲まれている地域は、『筑豊の民謡』において、山近が「思案橋」を紹介している箇所である。だが、歌詞の相違しているものや、囃子(はやし)の変わっているもの等が中心となり、同一の歌詞のものは省略されている。そのため、山近が記述しているのは、すべての思案橋ではないことを先に断っておかなければならない。

 

資料5 遠賀川流域略図

出典:『遠賀川―流域の文化誌―』『筑豊の民謡』を基に作成

 

資料5によると、思案橋は、遠賀川上流にある、嘉穂町や穂波町、中流域の直方(のおがた)市、そして下流域の岡垣町と、筑前地方を中心とする遠賀川全域に広まっていることが分かる。思案橋という盆踊唄を一つ取ってみても、遠賀川が人と文化の交通の要所となっていたことが分かる。筑豊地域に県下の半数の盆踊が存在し、直方(のおがた)市だけで全体の4分の1を占めているのは、遠賀川という水運によるものであろう。

この盆踊唄が直方(のおがた)へ伝わり、広まった経緯について、次のような記録が残っている。

黒田藩政時代、就中直方(のおがた)藩ができて1678(延宝6)年の頃に登場する。直方(のおがた)侍大塚次郎左衛門ほか数名が君命によって江戸に登り、その帰途大阪において、当時の民謡であった

 

思案橋超えて ゆこかな戻ろか思案橋

思案橋超えて 来るは誰ゆえそさま故

 

という唄を基に日若(うた)・舞の手振りを加えた上で、

 

殿様繁盛 国も豊かに栄えゆく

 

などの替歌をも作り、多賀宮の祭豊に境内で歌ったり、或いは市中(当時の古町)を踊りながら練り歩いたのが始まりであった。これが、現在の「次郎左(踊)」「思案橋(踊)」の謂れである(村上 1928)

このように日若舞と流行歌が融合したのには、日若舞の歌詞が難解だったからだとされている。そのため庶民は、日若舞から遠ざかっていた。そこに親しみやすい当時の流行音楽が取り入れられたところ、現在まで伝わることとなったのだ。日若舞は古文書にその(うた)を残すのみとなっている。

今現在、伝統芸能として伝わっている思案橋踊は、遠賀川を伝わってきた流行歌と、既に地域にあった由緒正しい舞とが組み合わされた、新しい踊りだったのだ。

 

3.1.2 本手―歌舞伎役者による振付−

日若踊を構成するもう一つの踊りは本手踊である。本手踊の始まりは、直方(のおがた)藩藩主、黒田長清の時代に遡る。「二上がり浦島」「加賀の千代」「梅の春」の長唄を基にした替歌を台唄とし、当時の歌舞伎役者から手振を習い、本手踊が成立した。本手踊は地域ごとに異なった台唄と手振が伝わっている。以下は本手踊の成立年代順位に並べたものである。

 

新町:安政1854年〜1860年にかけての江戸末期)の頃、新町の若衆は、替唄「二上がり浦島」を基唄として、大阪の俳優あやめ一座の中村吉太郎(一調)について新たに艶麗な手振を習い、以来この手振を本手として今日の新町に伝わっている。

古町:1864(元治1)年、当時古町の若衆は、長唄『加賀の千代』を基唄として、『末長き芦川の音頭』という替唄を作った。鬼丸について新に幽雅な手振を習い、古町の本手踊として成立した。

外町:古町から分離していた外町の日若踊は、慶應年間(1865年〜1868年明治天皇朝の年号)に入り伝わることとなった。越後役者の登龍が、外町の若衆に替唄「梅の春」を基唄とし、登龍について練習に練習を重ね、面目を回復することとなった。

(村上 1928

本手踊が作られた当時の様子について、『坂田利平稔吉履歴』を残した坂田は、次のように描いている。

 

「寿拾六歳 元治元年 事珍らしき当年、六十一年目の奉幣使京都梅渓公様、香椎(かしい)宮に御下りて奉幣使拝し群集せり。既に木屋瀬(こやのせ)駅泊に相成。自分は植木にて奉拝し、壱上大万作当町盆踊の新手が出来、手附大阪役者鬼丸を雇い入、台歌に、

賑わいや 日若祭も秋過て 人のこころも神さんに

たのむの雁の一円にいつしか是に芦川の 流れも清き水の面

エェエェ 賑わしき多賀の宮 

後の仰せを待つ斗り 願うこころを残すらん

此歌手附鬼丸の作

 七月の入方より老若男女稽古して、我を忘れて盆会となり、我を忘れて賑わいけり。何国の里も盆踊豊かなる世の秋ぞかし」(坂田 1864)。

 

成立当初は、各地域及び各々が、自分達の盆踊に対して、熱意と愛着を持ち踊っていたことが伺える。

 

3.2 神社の盆踊

江戸時代に流行った流行歌、そして歌舞伎役者による振付によって現在の日若踊の思案橋と本手は成立したことを見てきた。だがその原点には、多賀神社に伝承され、敬神を目的に奉納されてきた日若舞・日若謡がある。そのため、流行歌が取り入れられた後も、豊年祭で奉納する「奉納踊」という役割が備わっていたものと考えられる。それは、日若踊が伝わっている古町・新町・外町が多賀神社の氏子にあたることにも関係する。

直方(のおがた)日若踊』によると、神社への奉納踊が廃れ、盆踊に重点が移ってきたのは明治時代に入ってからのことだそうだ。

 

「多賀宮に奉納された日若踊は、その年の奉納のときに定めた手振りや替歌は、豊年祭、盆の供養の時に用いられるが、翌年の奉納までその手振や替歌の新作変更は許されないという不文律があったようです。しかるにこのような奉納日若踊りの諸慣例も、明治時代に入って、若者衆の団体が崩壊するとともに、次第に影を失って、奉納踊はただ盆踊にその隆盛を奪われてしまい、名も盆踊の方が一般的な呼名となっていたのであります」(直方(のおがた)市教育委員会 1958)。

 

江戸時代、市街地のほぼ中心にある多賀神社では、頻繁に宮芝居が行なわれていた。それは当時、能役者を招待してその演技を楽しむのは、一般各地領主の娯楽や趣味であったからだ。また能興行に限らず、奉納の形式で踊興行が行なわれていたからである(直方(のおがた)教育委員会 1958)。この踊興行の際、日若踊は奉納踊として奉納されていたようだ。

当時、多賀神社の宮司は興行の出願権を持っており、直方(のおがた)での興行の際には他の芝居を中止に出来るほどの力関係が成立していた。そのため近隣の人々は、直方(のおがた)の芝居が田園娯楽の最高峰だとして集まってきていたのだ。

このように、日若踊との関わりが深い多賀神社とは、どのような神社であろうか。多賀神社の創設、その年代は不詳だが、『古事記』に記されている伊邪那(いざな)()大神・伊邪那(いざな)()大神の時代に遡る。古代において多賀神社は、「日若宮」「多賀宮」と崇められ、人々の信仰を集めていたようである。

このように、元は神教的な奉納踊も備えていたのだが、現在は仏教的な盆踊へと変化したのだ。だが一方で、多賀神社と日若踊との関係の深さは現在でも見ることが出来る。1990(平成2)年の多賀神社の宮司の結婚式には、披露宴で日若踊が演舞されている。2008(平成20)年には、日若踊保存育成連合会の結成50周年記念行事を多賀神社で行っている。このように多賀神社、日若踊双方の関係性は強い。

また、直方(のおがた)の市街地に建立している仏教寺院の日若踊に対する対応も興味深い。ここの子供達は小学生の間だけ、地域の伝統芸能として「直方(のおがた)日若踊」を習っていたそうだ。しかし大人になった現在は、日若踊はあくまでも多賀神社の踊りであるとして、参加しないという方針を採っているという。

盆踊という位置づけの日若踊だが、神社との関係の中で成立、存続してきた、「神社の盆踊」であるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4 日若踊の変遷

日若踊は、江戸時代に本手と思案橋の二つの踊りから成立した。以来、その踊り手や衣装などに少しずつ変化してきたはずである。だが、盆踊という風流(ふりゅう)としての位置づけによって、芸能としての記録は十分に残されていない。日若踊の記録として目立つのは、1928(昭和3)年のことである。1928(昭和3)年、地元の伝統文化を復興し、伝え保存しようとする動きが、昭和天皇即位記念事業の一つとして始まった。そのため、踊りについての詳しい資料はこれ以降に残されている。

 復興の経緯は、次のようなものである。「これ(江戸末期から明治以来三ヶ町の日若踊は、明治二十六七年頃までよく継続されて来たものでありましたが、(中略)一時衰頽(すいたい)()むなきに至り、只老(おう)の話柄によつてのみ昔日の面影を偲ぶ便(よすが)となりましたが今年御大典奉祝の佳辰に当つて、直方(のおがた)商工曾の日若踊再興の提唱と、当町人士の()(ぼう)とは相俟つて(ここ)に(中略)日若踊の再演を復活することになりました」(村上 19284)。この際、各組の世話人、青年婦人会等総勢1025人が、練習に練習を重ねて、直方(のおがた)の郷土芸術として押しも押されぬまでに磨き上げてきた(村上 1924)。この努力により、直方(のおがた)日若踊は直方(のおがた)の伝統芸能として蘇ったのだった。

 

写真1 1928(昭和3)年 復興記念行事に於いて日若踊古町組全景

出典:『直方(のおがた)日若踊写真帖』より

 

そして戦後の1958(昭和33)年に保存育成連合会が発足し、福岡県無形文化財に指定された。これを記念して、直方(のおがた)市教育委員会で日若踊についての文献を作成している。その25年後には、井上弘氏によって、当時の日若踊についての資料が残されている。唄や踊がどの程度変化したかははっきりと分かっていない。しかし、当時の様子やそこで関わる人々、唄われている唄等を通して、現在の直方(のおがた)日若踊への軌跡を見ることはできるのではないか。

 

4.1 担い手たち

復興記念行事以前、日若踊が伝承されてきた理由として忘れてはならないのは、若者衆という社会制度の中にある、年齢集団があったことである。彼らが庭割方、庭触方、音頭方、踊仕立方の4つの役割に分かれてお世話をしていた。彼らは、盆踊青年団などと悪口を言われながらも、盆踊を村の年中行事として一手に引き受けて、ほとんど一ヶ月にわたる期間を喉を潰すまで唄を練習し、花笠を作り、踊大傘の作成から、踊子の世話等をやって、盆踊を遂行するのであり、まさに民俗芸能、文化の伝達者であるといえましょう(1958 直方(のおがた)市教育委員会)。

2は、1928(昭和3)年以降担い手の人数の変遷を表にまとめたものである。1928(昭和3)年の時点で古町組という地域は、1958(昭和33)年までに3つの地区に分かれている。古町北区と古町中区については、古町組の人口増加が原因とされている。古町組に携わる人口も、1958(昭和33)年の時点で一度増加し、そこから減少している。それ以前には、古町南区・新町北区があったという記述も見られることから、当時の活気が見られる。

古町組から派生した貝島組とは、筑豊炭坑で直方(のおがた)が栄えた時期、貝島炭坑で働く人々を中心とする組織にあたる。明治から大正にかけての直方(のおがた)の発展に最も寄与した人であり、炭坑王と言われる初代社長、貝島太助氏は日若踊が大好きだったためだという。ここは現在、多賀区と見なされる地域と同一であるが、日若踊は行われていない。

現在の多賀区公民館の館長である武谷尚俊(68)さんの話によると、多賀区公民館が新しく立て替えられた際、日若踊の道具一式も捨ててしまったそうだ。踊りはこれ以前から廃れていたという。柴木晴幸(80)さんは、若い頃ほんの数回練習に出ただけで、踊りの手も何も覚えていないそうだ。「昔は多賀神社の境内で練習しよった。先先代の多賀神社の宮司さんが教えよんなった。終戦後も一時やっとったけ、『行け』っち言われて行きよった。貝島太助さんがやっとんなったとこやけ、日若踊の元祖みたいなもんやろう。北区や中区の人からも、『しない!』[2]って言われるけど、先生もおらんし、伝承もないし、する人もおらんしね」と話した。

(ほか)(まち)については、記録には残っているものの、いつ頃まで活動を行い、どのような踊りであったかという記述や語りを見ることはできなかった。

 

 

 

 

 

 

出典:『直方日若踊』、『福岡県無形文化財 直方「日若踊り」』より作成

 

2を見ると、日若踊は地方(じかた)・踊り手と世話人の3つの役で構成されていることが分かる。それぞれが、現在の世話人に繋がっているが、役職としては消滅した。現在の世話人とされる人は、保存育成会の理事及び役員、スケジュール調整など世話する世話役、踊りを教えている先生、そして衣装の準備や着付けを担当する方を含めた裏方としている。また地方(じかた)とは、唄や演奏を担当する人の総称である。踊り子は10歳以下を花笠組、それ以上15歳までを花櫛組、16歳以上は妻折組として3つに分けられた。

西欧化という時代の移り変わりを反映しているのは、笠の変化である。1958年の時点で、花櫛がなくなった理由は、ヘアースタイルの変遷である。つまり、流行に押し流されたということなのだ。また、外町で見られたとされる禿姿や奴姿も同様である。現在はどの区も花笠と妻折、そして編笠が残るのみとなっている。古町北区では、次郎左踊で編笠を被っている。

楽器の変化も表2から見ることが出来る。現在使用されているのは、主に三味線・太鼓であり、新町には鼓が伝わっている。だが、以前には胡弓や琴、尺八といった楽器が使用されていた。どれも、弾き手がいないため使用されていないという理由と、正統でないため入れたくないという理由とがある。何を受け入れるかということに関しては、その時代の流行や関わる人によるようだ。時代の流れに即した変化そのものに、風流(ふりゅう)踊の名残を見ることもできるのではないだろうか。

関わる人数の合計が、この80年で大きく減少しているのがわかる。2008(平成20)年現在では、古町北区が一番多く80名となっている。だがこの多くが、名前だけで実際の活動に参加していない人であるため、実質は40名程と他の区と変わらない。

 

4.2 変わる配置

写真23はそれぞれ、1958(昭和33)年、2008(平成20)年のものである。50年前の写真2では、地方(じかた)は板で作ったバンコと呼ばれる台の上の上で演奏していた。中心には柄の長さ3メートル、傘の直径3メートルもある大傘を挿げ、傘持ちはその柄を支えていた。傘の周りには主旋律となる唄い手が一人、つけと呼ばれる歌い手が両脇に立ち、3-4名の唄い手が唄っていた。バンコの前に三味線が並び、太鼓はバンコの隣に位置する。写真2の当時、これら地方(じかた)は、輪の中心で演奏し、その周りに提灯を配置し、踊り子がその周りに円を作って踊った。資料6A)のとおりである。

ところが現在、写真3のようにバンコはなくなり、資料6B)ように、演奏が円の外で行われるようになっている。つまり、提灯を配置しその周りで踊る。バンコの意味やなぜ消失したかについては不明である。バンコは使用しなくなったが、大傘とそれを支える傘持ちがおり、唄い手がその下で唄うところは変わっていない。日若踊は盆踊等神仏の前で踊られていたため、この大傘が立てられたところは、神仏の霊が寄るとされ、清浄の地であるということを標示するためのものであるといういわれがある(1958 直方(のおがた)市教育委員会)。


 

写真2 1958(昭和33)年825

日若踊無形文化財指定記念の為多賀神社境内に於いて

出典:『直方(のおがた)日若踊北区日若踊三ツ和会 日若踊出場記念アルバム』

 

 

写真3 2008(平成20)年1018

直方(のおがた)日若踊保存育成連合会結成50周年記念事業における 奉納踊 古町中区

撮影:20081018日 多賀神社境内にて

資料6 地方(じかた)の配置の変化

4.3 衣装の変化

 1928(昭和3)年の復興以前、「本踊漂布」と呼ばれるさらしで作られた浴衣を着た時期があった。その後、各々の衣装で踊られるようになり、1958(昭和33)年の文献によると、当時の踊子の服装は各区・組ともにそろいのものになっている。その多くは、御殿勤女風の着物を着、黒帯を締め、カッポンといわれる履物を履くというものであった。また地方(じかた)については、男女ともそろいの浴衣で・角帯・裏無草履とされている。貝島組だけは、踊子・地方(じかた)を問わず、男性は紋付・袴、女性は裾模様紋付・振袖であり、裏無草履を履いていたそうだ。

 写真4の帯は、北区でされていた矢立結びと呼ばれる、ちょう結びにした帯をわざと斜めにしたものである。現在、各区でどのような衣装が用いられているかは、次のとおりとなっている。基本的に夏は浴衣、冬は着物であるため、生地が異なっているのはもちろん、区ごとにデザインが異なっている。

 

3 各区の衣装2008年現在)

 

古町北区

古町中区

新町区

女踊り手

男踊り手

地方(じかた)

踊り手

地方(じかた)

踊り手

地方(じかた)

着物

(夏)浴衣

(冬)矢絣

紋付・袴

(夏)浴衣

(冬)着物

(夏)浴衣

(冬)着物 

(夏)浴衣

(冬)着物 

(夏)浴衣

(冬)着物 

(夏)浴衣

(冬)着物 

矢立

 

お太鼓

後見   (作り帯)

 

お太鼓

 

履 

 

 

 

 

 

草履

 

カッポン

雪駄(白)

雪駄(白)

草履

草履 

(室内)

雪駄(白) 

 

 

 

 

 

 

赤い鼻緒

 

 

 

50年前、区ごとに衣装が統一されて以降、各区の名前が入った着物及び、帯の結び方が引き継がれている。写真5のような、矢絣と矢立の組み合わせは、昔の御殿勤女中の格好だそうだ。写真4の着物は矢絣でないことから、古町北区については、正統に戻るということを意識しているようだった。

古町中区の60代の女性に、「帯はいつからこの結び方なのか」という質問を行なったところ、「昔から」と答えてくれた。つまり、現在は各区の決まった衣装として定着してしまっており、どのような経緯で採用されたかは分からない。だがこれも、続けていくと伝統になるだろう。たとえ続かず、新しいものを採用したとしても、風流(ふりゅう)的伝統となる。         

 

写真4 御殿勤女風の女性         写真5 現在の古町北区衣装

       

出典:『直方(のおがた)日若踊北区日若踊三ツ和会日若踊        撮影:2008921

出場記念アルバム』(1958年撮影)

 

4.4 変わりゆく唄

西田幹子(83)さんは、「昔はもっとゆっくり踊っていたのよ」と現在の踊を見ながら話していた。これから、唄や踊りのテンポも変化していることがわかる。唄う唄、残っている唄についても年代ごとの違いが見られる。1864(元治1)年に書かれた『末長き芦川音頭』が、庄野直義によって1915(大正5)年に書写されたものが残っている。この中には、本手の唄が16入っていた。また、1928(昭和3)年に村上福太郎の監修によって書かれたものの中には、思案橋が8、本手が11残っている。

現在、(ほか)町区・貝島組は廃れ、古町区は北区・中区に分かれているが、それぞれに違いがある。表4は、記録されている唄の数の変遷を示している。どの区にも、思案橋と本手が伝わっている。古町組は、1958(昭和33)年の時点で北区・中区・貝島組に分かれているが、本手の基唄は「加賀の千代」である。この年の文献には、古町北区及び中区はまとめて記述されている。この三区は、基唄が「加賀の千代」という一つの唄であるにもかかわらず、唄の数が異なっている。『直方(のおがた)日若踊』によると、貝島組の本手として残っている16の唄は、『末長き芦川音頭』に記録されている唄とは異なる唄で構成されているようだ。

 

4 唄の数の変遷

「本手の基唄」

 

1958(昭和33)年

1983(昭和58)年

2008(平成20)年

思案橋

本手

思案橋

本手

思案橋

本手

古町組          「加賀の千代」

古町

北区

5

3

5

6

3

1

古町 

中区

5

4

2

1

貝島組

16

16

12

4

 

 

新町組

「二上がり浦島」

新町組

9

9

7

9

2

2

(ほか)町組      「梅の春」

(ほか)町区

5

6

5

6

 

 

出典:『直方(のおがた)日若踊』、『福岡県無形文化財 直方(のおがた)「日若踊り」』より作成

 

1958(昭和33)年、1983(昭和58)年については、それぞれの文献に残っている唄の数である。実際にどの唄が日常的に唄われていたのかについては分からない。また、2008(平成20)年においては、台本に残っている唄の数を記述している。実際に唄われている唄については、資料7に記載されているとおりである。その外、貝島組と外町組は、廃れてしまっている。

唄について、3つの地区を比較すると次のことがわかる。

まず、1つの区切りを呼ぶ名称に違いが見られる。一節や一調と表現されるが、どちらの範囲も変わらない。本手・思案橋、どちらにおいても1つの固まりを節や調で表すのだが、踊る範囲や量は異なっている。どの唄をどのくらい唄うかには、区ごとのこだわりが見られる。例えば資料7にある、古町北区の思案橋おどりの中の(祝い)(盆)の区別は、唄の内容が異なるからだ。「若松様〜」の唄は、基本的にお祝いの席で唄われるもので、死者供養には似つかわしくない。そのため、盆には「北山時雨〜」を唄うということにしているようだ。

本手は、基唄が異なるため、地区によって唄われる唄や譜面が大きく違っている。一方思案橋は、先で触れたように起源が同じで、同一の歌詞を使っている。にもかかわらず、資料810によると、2つの思案橋の譜面は若干の違いが見られる。現在の三味線の楽譜については、に記載してある。具体的には、始め方、終わり方、本手とのつなぎ方などが異なる。例えば古町は思案橋と本手をそれぞれ区切って踊る。思案橋には始めと終わりがつくことになる。それに対し新町は、思案橋・本手とそれぞれ区別せず、1つの流れとして踊る。そのため始めと終わりがなく、思案橋と本手がつながる1つの唄となる。

唄がどのように唄われ、変化していったのかについては記録として残すことが難しく、残っていない。だが、古町組という1つの地区の唄「加賀の千代」は、北区と中区に別れた現在、それぞれの唄い方というのがあるようだ。簡単に言うと、北区は低い声が主旋律となり、中区は高い声が主旋律となる。この違いは、一世代上でそれぞれ主旋律を唄っていた唄い手の、唄い方の違いによるものである。この違いがそれぞれの区の特長として引き継がれているのは、区の年配者が「北区の唄い方は低いのが本当なんよ」と言った言葉によるものであろう。

また音の変化には、他にも理由が存在する。それは古町北区の三味線の皆さんの、「今は譜面として残っているが、昔は手写しだった」という語りから見られる。毛利良幸(52)さんによると、資料89の現在古町北区に伝わっている太鼓と三味線の譜面は、元々中区のものであったそうだ。それを引き継ぎ、古町北区に伝わる練習用テープを聞いて手を加え北区のものとして使用しているそうだ。このような譜面として起こされたのはここ十数年程で、それ以前は手写しで習い、口三味線で覚えていたという。口三味線とは、三本の線をそれぞれチン・ツン・テンと呼び、全部を弾く時はシャンと表現して音を口ずさみ覚えるものである。その為、音の取り入れ方に銘銘の違いがあり、少しずつ変わっていく可能性のあるものであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

資料7 現在唄われている唄―古町北区・古町中区・新町区―

 

古町北区

古町中区

新町区

<思案橋>    一節

<思案橋>   一節半

<思案橋>    一調

または二節

 

または 二調

 

 

 

この町は繁昌  エェ 
末は末はなぁ

この町は繁昌  エェ 
末は末はなぁ

この町は繁昌  エェ 
末は末はなぁ

鶴亀五葉の松

鶴亀五葉の松

鶴亀五葉の松

 

 

 

(祝い)

若松様よ エェ

 

若松様よ エェ

枝もなぁ

<本手>     一調

枝もなぁ

栄えて葉も茂る

または二調

栄えて葉も茂る

 

 

 

北山時雨  エェ 
曇りなき身は

なにしあかしに

(盆)

晴れていく

仮寝の旅路

北山時雨 エェ

 

都恋しき波枕

曇りなき身は

 

袖にもつるる秋風や

晴れていく

 

若紫の色深み

 

 

しとうその身に

<本手>  一節

<本手>  一節

ついうたた寝の

 

古町北区と同じ

儚くさめし袖の露

賑わいや 日若祭も

 

 

秋過ぎて

 

四方の山々

人の思いも 神さんに

 

紅葉をなして

頼むの雁の一筆に

 

鹿は妻こう秋夜中

いつしかここに芦川の

 

奈良の都の三笠山

流れも清き水の面

 

紅葉はせねと

淵瀬とかわる月のふね

 

照りわたる

エェエェ

 

光さやけき

賑わしき多賀の宮

 

あれものさびし

のちの逢瀬を

 

緋色に

待つばかり

 

秋は見えにけり

ねがうこころを

 

 

のこすらん

 

 

資料8 思案橋譜面―古町北区―

提供:内藤利枝(42さん

 

資料9 本手譜面―古町北区―

提供:内藤利枝(42さん

資料10 思案橋譜面―新町区―

提供:上國二三男(72)さん

 

資料11 本手譜面―新町区―

提供:上國二三男(72)さん

5 芸能を支える地域社会

 前章では、日若踊の変化を提示した。明らかなのはこの踊りは、現在も尚、地域で継承・運営されているということであった。これはひとえに、継承地域に住む人々の努力だといえるだろう。伝承地域の一つである古町北区を中心事例に取り上げて、地域社会がどのようして、この芸能を支えているのかに目を向けて見よう。

 

5.1 変化する人口環境

前章の表2のように、1958(昭和33)年に比べ2008(平成20)年には、携わる人数が大きく減少している。この原因は何にあるのか。昨今の日本の地方(じかた)都市にあるように、直方(のおがた)市も人口の減少に直面している。このことが芸能を支える活動に影響を与えていると考えられる。

3は、直方(のおがた)市の人口動態と、市街地の人口動態の比較である。この図で統計に利用した市街地の地域は、北校区と南校区を合わせたものとした。実際に日若踊が伝承されている地域に比べ広い範囲となる。これは、近年の要覧では地域で分類されているが、20年ほど前までは校区による分類が行なわれていた。近年の資料は、各校区に当てはまる地域人口を合計し、算出した。

下記の図3を見ると、1960(昭和35)年で直方(のおがた)市の人口が増加している。これは、筑豊炭田全盛期にあたるためだ。直方(のおがた)日若踊が県の無形文化財になったのもこの年である。1960(昭和35)年の当時は、人口の約40%が市街地に住んでいた。その前後の年は、前章の写真1及び表2のように、携わる人数も多く、盆踊は活気に溢れている。だがその後、年が経るにつれ市街地の人口が直方(のおがた)市全体の10%程度まで減少している。直方(のおがた)市内の人口は1960(昭和30)年から6万人前後を保っており、大幅に増減していない。そのことから、直方(のおがた)市東部などの郊外に団地が形成され、そこに移住した人が増加したことが関係しているものと考えられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3 直方(のおがた)市の人口動態

出典:『直方(のおがた)市勢要覧 昭和25年、28年、32年、36年、53年、56年、63年版』

『統計直方(のおがた) No.3940(平成1415年版)、No.44(平成19年版)』を基に作成

 

5.2 再出発する古町北区

 古町北区は1984年に発行された『福岡県無形文化財 直方(のおがた)「日若踊り」』の著者、井上弘氏と同世代の人々が中心となって活動していた頃が全盛期であった。その当時は、窪田雅一(54)さんだけが参加していた。窪田さんが参加していた理由は、窪田さんのお父さんが参加していたからである。それ以来窪田さんは続けており、今では主旋律を唄う唄い手である。だが、他に後継者は育っておらず、育ててもいなかった。また思案橋の一つである男踊り、次郎左も途絶えていた。

 今後日若踊を伝承するかどうか、伝承するとして、誰がどのように行なうのか。これが話し合われたのは1994(平成6)年である。後継者の育成や伝統文化の消失に危機感を持ち、北親会[3]でアンケートを取った。結果、すぐに練習する人・今後参加する気持ちがある人で、計21人が集まった。現在中心となって活動している人々は、このときから携わることになる。現在日若踊に携わる毛利さんは、「このときまで、日若踊り=日若音頭っち思いよったきね」と話した。

 ここで組織形態も整え、次のような組織が成立した。

 

 

 

 

 

資料12 古町北区日若踊り 保存育成会組織図  

 

北区区長

 

 

会長(1人)

 

 

北親会会長

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

副区長

 

 

副会長(2人)

 

副会長

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

会計

 

 

事務局長(1人)

 

 

会計

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

総務部長

 

事務局次長(1人)

 

 

幹事

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

世話人

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

地方(じかた)    唄・太鼓   三味線  

 

<男性>  男踊り・傘

 

<女性>  女踊り

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

出典:古町北区保存育成会組織図(2002.2.13)より一部改変

 

 資料12の中でも、日若踊の運営や伝承に直接関わるのは、世話人・地方(じかた)・男女の踊り手であり、中心となるのは、世話人である。全ての情報は世話人から発信される。

毛利良幸(52)さんは、現在は古町北区では世話人として主に携わっている。唄も唄い、太鼓も打ち、次郎左も踊ることが出来るため、人手が足りないときは自らも参加している。また、連合会の世話役も務めていることから、他の区でも日若踊のことを訪ねても、「毛利さんに聞くのが一番よかろうも」との返事が返ってくるほどだ。連合会世話人として、資金調達や各区へのイベント出場の割り振り、舞台の事前確認を行っている。

北区の世話役として、区内の参加者への呼びかけと確認、当日の準備・スケジュール等の作成、配布を行なっている。去年、国からの助成金で太鼓と三味線、傘を買い揃えることが出来たという。本業のかたわら、日若踊の雑多な用事をこなしている毛利さんは、「世話人がおらんと続かんばい」と話していた。世話人の育成が、今後日若踊を保存するのに重要だと考えているようだ。

古町北区保存育成会が再出発の準備を始めている頃、問題となったのは唄・踊り・演奏の継承であった。

唄については、窪田さん・毛利さん始め数人は中区の唄い手から唄を習っていた。当時、主に唄っていたのは窪田さんであった。しかし、窪田さんが癌に侵されていることが分かり、唄存続の危機が訪れた。そのため、矢野富士雄(55)さんと毛利さんの弟さんが、踊り練習用に使っていたテープを用いて、唄を覚える必要性が出てきた。中区の唄い手から習わなかった理由は、北区と唄い方が異なるためである。北区は北区であり、中区と違うという年配者の声も聞かれた。

演奏には三味線と太鼓が用いられる。三味線は、経験者の絶対数が減少しているという問題があった。今まで三味線は、経験者が弾くものであった。だが存続の為には、日若踊を知らない人や未経験の人に参加してもらい、続けていかざるを得ない状況に置かれた。三味線を弾いている花房さんが中心となって地元の人に声を掛け、現在三味線を弾いている松本勝弘(53)さん、河内里美(29)さん、河面さんの三味線未経験の3人が参加することとなった。

踊りは誰が教えるか、ということも問題であった。ひとり一人踊り方が少しずつ異なるため、少しでも昔の踊りを再現しようという努力が起こったためだ。人々はその話になった時、地元の直方(のおがた)に帰ってきていた西田幹子(83)さんに打診した。その理由は、西田さんが昭和2829年頃に日若踊を踊っており、昭和223年の頃から本格的に指導していたためであった。現在60歳になる人も子供の頃に西田さんから踊りを習っており、昔からの正統な踊りを知っている唯一の人であるとされている。また、1994(平成6)年には、戦争や後継者問題で途切れていた次郎左踊りを復活させた、古町北区の功労者の1人である。

次郎左復活は、平成2年の多賀神社の宮司の結婚式の際に次郎左が披露されたことが発端である。復活して十数年を経た現在、その次郎左は西田さんが伝えた正統なものと異なっていることが分かる。だが当時、毛利さんを始めとする新生保存会の面々は、「いつか復活させんと!」と思ったそうである。

 

写真6 「次郎左」踊りを教える西田さん

出典:「ワイドふくおか 筑豊」『西日本新聞』 199964日発行より

 

 

 

5.3 参加者の多様化

5.3.1 盆踊

 古町北区では、日若踊にとって重要な行事である盆踊を、毎年814日に行う。このときの中心は子供達になる。練習は8月から行なわれるため、その前から、世話役が、地域(ここでは古町北区内)の子供達に声をかける。先の地図にあったとおり、中心は商店街だが、少子高齢化により子供たちが少ないばかりでなく、商店街に住む地の人も減少している。そこで2008年は、商店街に住む親御さんを通じて、駅前に新築されたマンションに住む友達へ声をかけたそうだ。そのことが功を奏して、今年は幼稚園の男の子が5人集まった。

初盆の家々には世話役の人が事前に声をかける。数十年前まで、「初盆の提灯が見えたら押しかけて踊っても何も言われんかった。逆に、何で来んとね。と怒られたくらいやった。けど、いまは勝手にやるとおごられるけんね」と、地域が変化した様子について、新町の上國二三男(72)さんは話していた。ここ数十年で、町の人の日若踊に対する反応も変わったのだろう。

 

練習開始

810日頃まで、毎日19時半から20時半ごろまで練習は行なわれる。この時、地域の女性が中心となって教える。だが、皆忙しいこと、また商店街に住む人も減少していることで、教える人は23人しか集まらない。普段の練習ではテープを用い、何度もくり返し練習する。だが、何度も同じことをしていると、飽きてくるのが子供だ。休憩を入れるたびに、鬼ごっこが始まる。10日間の内、23回は地方(じかた)の人と一緒に練習する。いつもテープで踊っているため、その時々によってリズムや声の調子が異なり、「何かちがう」と踊りにくさを感じながら踊っていた。練習の最後には、毎回アイスクリームが配られる。これを目的に、子供達は練習に来るのだ。

たった10日間の練習であるため、初めて踊る子は、思案橋が覚えられても、本手を覚えらないことが多いようだ。子供の数が今より多かった十数年前は、小学校入学前から練習に来ている子供が多く、小学校中高学年では形になっていた。人数が多かったため、本手ができる人とできない人に分かれて練習していたこともあった。私が小学校低学年の時分は、先生の後について見よう見まねで覚えようと頑張っていたことを覚えている。練習も最終日に近づくと、既に覚えている上級生の後について、最後にはとりあえず手足が動くようにはなっていた。練習のない昼間、近所の友達と商店街の中にあった先生の家へ行き、練習することもあった。

 練習の最終日、そろえの浴衣と帯・帯締め等が配られる。子供達の名前を書き、当日まで持って帰ってもらう。なぜなら、袖の長さをそれぞれの体系にあわせなければならないからだ。これは、親御さんに頼む。親はそれまでに肩上げをし、浴衣を子供の腕の長さにあわせておくためだ。帯締めを3本・帯板・足袋・タオルを用意し、着付けに持ってくるよう言われる。

最後の練習日に衣装を渡すためには、担当者が子供達の身長にあわせて浴衣を一式準備しておかなければならない。最近では、当日バタバタしないように、作り帯を渡すようになったそうだ。作り帯は、当日の時間短縮のために準備の段階で作成する。浴衣だけでなく、おこしや帯締めも子供達の身長にあわせてそろえる、そんなこまごまとした気配りがあってこそ、当日、順調に進めることができるのだ。

 

盆踊当日

 公民館集合は15時頃。1回の踊りで約10分から15分程かかるため、件数にあわせて集合時間が異なる。多いときは15件ほどを回ることになる。子供達は人数も多い上に着付けに時間がかかるため、早めの集合となる。しっかりと着付けをしても、遊んでいるとすぐはだけてしまう。「暴れないのよー」という大人たちの声も何のその。毎年のことながら、大人たちは出発直前に帯やおこしを直してあげることになる。古町北区内だけでなく、新町や市内東部にまで足を伸ばすこともある。

踊りの本番が始まる。人数の多かった頃、出来ない子供は覚えている上級生の後ろをついて、見よう見まねで手を動かしていた。小さい頃はそれでも「かわいいね〜」と許される。また本番では、練習以上に何度もくり返し踊るため、終るころには少し覚え、自信が付くのだ。だが最近は、練習を始める年齢が遅いことで、上級生の方がたどたどしく踊り、逆に低学年の子の方が踊れることもある。その様子を見ていると、「低学年の子の方が上手で、大人から褒められるのを聞くのは嫌で来たくなくなるだろうな」と、そんな感想を持つこともあった。

 

写真7 初盆の家で供養の舞 直方(のおがた)市で「直方(のおがた)日若踊」

出典:「筑豊」『西日本新聞』 2008(平成20)年815日発行 より

 

全ての家で踊り終わる頃には暗くなっており、夜の8時ごろにまでなる。その頃にはへとへとで公民館に再び集まる。カッポンを脱ぎ、浴衣を脱いでやっと開放される。「洋服っち楽やね〜」と声が聞こえる。着替え終わった後、世話人は子供1人に2000円を配り、初盆の家々で配られたお菓子やジュースを分ける。小学生に2000円は大金だ。これが子供の最終目的だ。その後打ち上げがあり、大人も子供も皆でご飯を食べに行く。

 後日、浴衣はまとめてクリーニングに出す。その他の帯・おこしは家で洗濯、陰干、アイロンをかけて再び公民館に持っていく。毎年毎年これをくり返し、長く綺麗に使えるようにしている。

 

5.3.2 特別催し物―日若祭(20081018日)―

 3区は日若踊り保存育成連合会を作っており、今年で50周年を迎える。催し物に呼ばれ、日若踊りを披露する際には、基本的に3区での持ち回りとなっている。通常連合会の世話役は、出場依頼が来た際、多くの場合事前に下見をし、自分で会場の広さや場所を確認する。当日、踊り手が何人必要かを確認するためだ。その後担当となっている区に声をかけ、出場について打診する。出場できるか否かは、日程や出場人数を確認した後に、連合会の世話役に参加の有無を伝える。

それが今回、『直方(のおがた)日若踊保存育成連合会結成50周年記念事業』として、この日若祭で、多賀神社への奉納という形で踊ることとなった。3区が合同で踊るのは20年ぶりだそうだ。3区合同の日若踊奉納だが、全ての区が同時に躍ることは出来ない。それは前述したように、3区の唄や手振が異なるためだ。今回は古町中区・新町区・古町北区の順番で披露することとなった。

日若祭本番は1018日(土)1800分、出演は1840分頃となっていた。世話役である毛利さんは、練習日を108日(水)、14日(火)、17日(金)と設定し、参加者と当日のスケジュールを書いた資料を、関係者に106日付けで配布した。

 

本番前日―衣装準備―

 本番直前の17日(金)15時頃、毎回の行事で衣装の準備と着付けに携わっている田中紀子(56)さんと一緒に公民館へ向かった。翌日(18日)の日若祭りで使う衣装を準備する為だ。「本当なら、○日に衣装出しします。集合してください。と事前に声かけして、皆でやるのがいいんよね。でも人がおらんし、私の予定に合わせてやっちゃうんよ」と田中さんは言う。

田中さんは10年程前、衣装準備を因間弘子(76)さんから引き継いだ。地元出身者ではないため、娘さんは踊っていたが田中さん本人は踊りを踊ることができない。仕事の傍ら、時間があるときに紐やおこし縫い、皆がそろいの衣装で出ることが出来るように工夫しているそうだ。また、着付けの方法も永年の間に改良に改良を重ね、誰でも早く綺麗に出来るよう工夫しているそうだ。しかし問題は、このように工夫しても次に続く見込みがないことである。「10年くらいはおばちゃん達で持つやろうけど」と話していた。

 

 

写真8 一人で衣装準備をする田中さん

20081017日撮影

 

公民館に到着し、押入れから衣装を出す。それが意外と重労働なのに驚いた。着物や浴衣、帯、飾り紐など、それぞれが種類別に衣装ケースに入れられ、押入れの中に積まれているのだ。そこから使うケースを出さなければならない。

 それぞれを必要な数だけ出した後、着物や帯、紐などをひとり一人の体系に合わせて選んで並べる作業がある。今回の女性の踊り手は8人分、地方(じかた)2人分である。盆の時程多くはないが、時間がとられることは必至だ。

 

本番前夜―練習時に―

 17日(金)1930分から21時頃まで、公民館で最後の練習が行なわれた。総勢10数名と少人数ではあるが、音あわせと踊りの確認、翌日(18日)のスケジュールの確認が行なわれた。当日、踊は思案橋一節と本手一節に決まった。「思案橋、2節やろうや」そういう声も上がったが、「いや、時間がないき一節にしちょっちゃって」と毛利さんに言われ、引き下がった。

練習後、来ていた人に日若踊との関わりについて尋ねた。

 

敷田裕子(24)さんは、物心ついた頃から、日若踊を踊っていたという。きっかけは、彼女のお母さんが踊っていたからだそうだ。今は裕子さんが踊る為、お母さんは踊りに参加してはいない。ほとんどの子供が中学校で一度踊をやめてしまうが、毎年一度は踊りに参加している。敷田さんの同学年の女の子は4人おり、中学校に進学しても、1人だけになることはなかったため、続けることができたようだ。高校卒業後、地元に残っているのは彼女だけとなり、仕事で福岡に通っているが、予定がない限り日若踊には参加している。

なぜ参加するのかという質問をしたところ、夏になったら踊るのは当たり前という答えが返ってきた。何年かに一度しかない、広島での親戚での集まりも、「踊りがあるけ」と帰ってきたそうだ。「伝統を守りたいとか、そんなんじゃない。普段めったに会えん人とか、しゃべらん人とか、皆と会えるけね。父親と同じくらいの人と、普通話さんばい」と、敷田さん。年齢層が幅広く、学ぶことも多いという。

 

正木基子(78)さんは、癌を患い、2007年に手術をしている。それにもかかわらず、その年の盆にも三味線を弾いたそうだ。それ程日若踊が好きな正木さんは、日若踊について、「昔躍られんやったけね。日若踊は見るもんっち思いよった。音は聞いて覚えちょうけど。やけ、三味線で、日若踊りをやれるんがうれしいんよ」と話してくれた。

日若踊に参加したきっかけは、花房秀行(73)さん。「たまたま見て、いいねー入らしちゃらんやろうか?っち思いよった」。「やらしてください」と頼み、今は亡くなった窪田さんから、「いいよ」と言われ、始めたそうだ。三味線は検番[4]で習っていた。

正木さんが子供の頃、日若踊は誰もが参加できる踊りではなかった。正木さんは、置屋が連なる、裏通りの西町に住んでいたが、当時は、現在の古町通りがある、主要な通り沿いの「お嬢さん」が参加するものだった。そろいの衣装などはなく、着物は自前であったため、金銭的余裕のある家の子供しか参加できなかったからだ。

 

河内里美(29)さんは、2008(平成20)年の10月で、三味線を始めて丸7年になる。彼女は直方(のおがた)駅から北九州方面に一駅進んだところにある、新入に住んでおり、後に市街地へ引っ越してきた。日若踊について、見たことはあったがあまり知らなかったそうだ。日若踊で三味線を弾くようになったきっかけは、現在も三味線を現役で弾いている花房さんが妹に持っていった話を、河内さんが受けたことに始まる。

「まさか自分がするとは思っとらんかった。せっかく持ってきてくださった話やけ、断ったらもったいない」と、始めたそうだ。それまで、楽器を扱ったことはなく、最初はとても苦労したそうだ。自宅や近所の空き部屋で練習もしていた。「何で皆あんなに弾けるんやろうか?」と、習って始めて奥深さを知った。あれから7年を経た現在、2008(平成20)年の盆には、初盆で不在であった花房さんの代理として、中心となって弾くなど、次の世代への期待を背負っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 練習の後は、小さな打ち上げが始まる。ここでいろいろな話をする。日若踊のことはもちろん、昔の直方(のおがた)の話、そして今後の活動の話もあった。「あんたがやらんといかんばい」。そう言われながら和気藹々と語る短い時間は、一体感や居場所を感じる大切な一時なのかもしれない。

 

写真9 練習後の風景 古町北区公民館にて

2008(平成20)年1017日撮影

 

本番当日

 本番当日の集合は1630分である。女性から、来た順に着付けを行なうこととなる。手際よく着付けがされ、1700分、男性が着替える。男性は各自で着る。

 古町北区公民館から多賀神社まではそう遠くないが、女性はタクシーを利用し、男性は徒歩で向った。1800分、3区合同の御祓いの後、開会の挨拶が始まり、古町中区・新町区・古町北区の順番で、奉納踊りが始まった。

最初は古町中区の、思案橋一節半と本手一節である。思案橋が終ると少し間をおき、本手に入る。古町北区と同じ伴奏であるため、手振りも同様でもいいはずだが、多少の違いがある。踊っていない人が見れば、同じと思うかもしれない程の小さな差であろう。だが普段踊っている人にとっては、伴奏が同じであるだけに、違和感を感じる。踊り手には20代の人は見当たらず、若くても40代であり、50代以上の年配者が多いようだった。

 続いて新町区の踊となった。思案橋一調と本手一調の踊りである。思案橋と本手との区切りがない、1つの長い踊であった。同じ「日若踊」だとは思えない、音楽も手振もまったく異なる踊りであった。古町北区と中区から「初めて見た」「全然ちがうね」との声が聞こえる。新町区は他の区と異なり、本手を二節踊る。「本当は二調二調で踊りたかったんやけどね。やけど時間の関係で」と話していた。新町区の唄い手には女性が1人いる。唄は男という認識があっただけに、少し驚いた。踊り手はやはり年配の方が多いようであった。

 最後は古町北区である。前日打ち合わせたように、思案橋一節本手一節を踊る。「思案橋一節」の声と供に三味線が始まる。人数が少ない割に踊る場所が広いため、男女交互になり踊りを披露する。地方(じかた)、女踊り、男踊り(次郎左)をきれいにそろえることが出来てほっとする。少し間をおき、男踊りの面々が輪から外れる。人と人との間を調節し、「本手一節」の声と供に、再び三味線がなり始める。ここからは自分の時間。音に浸り、踊りきる。実際に踊り出すと、他の区よりも短い気がする。「思案橋二節やってよかったんやないん」という声も聞こえてくる。道行く人が拍手をしてくれる。それが少しうれしかった。

 踊りの後は3区合同での式典が催された。皆で食事をしながら、各区の功労者を表彰するというものだ。区からそれぞれ3人ずつ表彰されることになった。部屋が狭いせいもあり、他の区との交流は難しかった。このような機会はなかなかないのだが、区内で固まって話をせざるを得ない状況に少し寂しさを覚えた。

「これから毎年やらな」そういったのは毛利さんであった。「こういうことをせんと、続かんばい」と。今回の企画・運営は毛利さんを中心に行われた。功労者として表彰されることはなかったが、日若踊のことを誰よりも考え、実行ているのは毛利さんではないだろうかと思った。

その後、公民館まで徒歩で帰る。今日は祭りの日であるため、屋台が立ち並ぶ。だが、十数年前と比べ、立ち並ぶ屋台も人通りも少ない。多賀神社へお参りに来る人も少ないような気がした。いつの間にこんなに人がいなくなったんだろうか。商店街を歩きながら、閉店後のシャッター街を見て、昼間の様子を思い出す。昼間も多くの店のシャッターが降り、商店街には閑古鳥が鳴いている。本当にいつの間にこんなに店がなくなったのだろうか。

 寂しさと供に公民館に帰る。公民館の明かりがまぶしいく、人の笑い声がしてほっとする。これから恒例の打ち上げ。打ち上げまで終って、やっと日若踊の一日は終る。

 

5.4 支援者たち

 この章では古町北区を取り上げ、地域が踊りを中心とした行事をどのように支えているかを示した。これらの資料から、参加する人々は以前のように、そこで生まれて育った地域住民や嫁いできた女性たちだけでなく、移り住んできた人々も参加できるようになった。

例えば田中洋子(61)さんは、直方(のおがた)から北九州の方面へ2駅向かった植木地区在住である。植木から市街地まで通ってきている。「アルバイトです」自己紹介をしてくれた際、田中さんはこのように言った。実質はバイト代が出るわけではなく、他の人と同じように、ボランティアである。八女出身で、始めるまで、日若踊は全く知らなかったそうだ。平成8年、地元の人から「三味線をされとんなぁなら、日若踊で人が足りんけ、どうやろうか」と誘われた。三味線を弾いて既に10年近く日若踊と関わっているが、自身が持つよそ者意識のために、引け目を感じているそうだ。

その他にも、現在参加している人の話からは、地元出身者ではあるが、現在地元に住んでいない人の参加も数人認められた。内藤利枝(42)さんは日若踊があるたびに門司港から約1時間半をかけ、直方(のおがた)に来ている。古町北区出身で、小学校の頃習い始め、中学校にあがると同時に踊らなくなったそうだ。子育てが一段落ついた10年程前から、また踊り始めた。「30代の頃も、呼ばれよったりしよったけど、子育てが忙しいけ、せんやった」と。現在では、盆には子供たちのお世話など、手が空いている限り手伝いをしている。三味線も習い始め、最近では思案橋が弾けるようになったそうだ。

 市街地の人口の逓減によって、市街地はさびれ、地元で生まれ育った純粋な地元出身者は減少することとなった。その影響により、地域という枠組の中で伝承されてきたこれまでの方法は困難になったと考えられる。伝承地域であった多賀区(貝島組)・外町区の日若踊のように、既に何年も前から見られなくなっている地域もある。それらの地域では日若踊に関する資料は破棄され、当時の踊りを知っている人はほとんどいないのが現状である。

そんな中、地域文化の伝承を継続するため、伝承地域の人々は新たな取り組みを迫られた。例えば、地元出身ではない移転してきた人に声をかけること、また結婚のために地元から離れた人やその子供などにも、盆の帰省に合わせて練習に来てもらうなどである。今後も地域の民俗文化を伝承するためには、純粋な地域住民だけでは人数的に賄えない。人を巻き込むための様々な解決策が必要なのだ。

古町北区では、地元から離れた人に手伝いを呼びかけたり、駅前にできた新しいマンションの住民に声をかけ、参加してもらうよう努力している。新町区では、第24月曜日に練習日を設けている。また、小学校の運動会で、子供達と保護者が一緒になって日若踊を踊れるよう取り組んでいる。一方で古町中区は、日若講を毎週行い、その後に日若踊を練習するという形で取り組んでいるが、メンバーは変わらない。

これまでは、「地元の伝統芸能だから」と、アイデンティティの一つとして成立し、残ってきた。しかし、排他的であった伝統芸能は、現在地元に固執せず、より多くの人に広め、伝えられるようなものに変わってきている。

古町北区で着付けを担当している田中紀子さんと話をしている時、今後日若踊りをどのようにしていきたいかという話題になった。田中さんは「変わっていくもの」と語ってくれた。では、何を残すのか。「まずは形。その後心が付いてくればいい」そのような答えだった。地域性や心は、後から付いてくるものだが、本当に続けていくためには、心が一番重要だと考えているようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

6 時代にもまれて

「聞いて、大変だったの!」鋤田洋子(66)さんは、開口一番にこう言った。鋤田さんは、盆に、世話人の因間弘子さんと交互に子供達の付き添いを行なっている。1969(昭和44)年、結婚と同時に直方(のおがた)に来ることとなった。当時のことについて次のように語っている。

結婚して子供がまだ小さかった頃、子育てが大変で踊ることが難しかった。だが、向かいの庄野さんのおばあちゃんが「若い人が踊らな!」と言われ、鋤田さんは覚えたそうだ。「今は嫁が踊らん。仲間がおらんけかな」と語っていた。

鋤田さんの夫、哲雄(73)さんは、小さい頃(約60年前)のことを次のように話す。「皆で集まった時とか、曾祖母ちゃんたちがよう踊りよった。そんとき、『新町の手はこうばい。そうやない!北区の手はこうで、これが正しんよ』みたいなやりとりがありよった」と。今は古町といっても、古町通りではなく、明治町通りの方が活発だと、2人はさみしそうに話していた。

 地方(じかた)の芸能活動は変化していると言われる。その第一は、支えている人々の構成であろう。これまで民俗芸能は、「地域」という地縁集団への忠誠度によって守られていた。日若踊についても、最近までは地域という枠組のなかで、受け継がれてきたものであった。しかし現在の日若踊は、伝統の維持を第一目的とするために、過去には「部外者」として扱われた人を巻き込むことで、目的を達成せざるを得なくなったのだ。

今日の地域社会は開放性を獲得し、広域化している(長谷川 1997)。人口が減少している地域が今まで「部外者」であった人々を取り込もうとする動きは、広域化する現代社会の流れを受けた必然的なものであるだろう。

しかし開放性を取得し、出入りが頻繁になることで、集団という社会単位が不安定になる心配もある。住民の生活条件が多様化し、住民の関心が多面化している現在は、多種多様な機能集団が開花しやすい。そのため、地域芸能の保存団体が、市民活動団体の一つとしての選択肢でしかなくなる場合もあり得ると考えられる。つまり集団形成原理が地域から個人主義に立脚するものへと変化することで、形成された集団については、加入脱退の任意性、運営の合理性が要求されることになる(長谷川 1997)。

「地域」という社会単位でまとまることが難しくなった集団は、何よって統合できるのだろうか。人間は、自分の居場所がそこに確かめられると信ずるとき、不安から開放され、自信を持って行動することが出来る。その結果、社会の構成員は、自らの社会体系への依存と信頼を高め、社会的統合が促進されるのである(森田 1990)。つまり、個々人の帰属意識の形成の結果、集団は統合することができるのだ。

日若踊が今後維持していくかどうかは、人々が統合できるかどうかにかかってくる。集団の維持は統合の結果であり、統合なしに維持はありえないからである。そのため参加者は、地元で生まれて育った人々だけでなく、何らかの関わりを根拠として活動に巻き込んでいくのである。これまでの日若踊についての人々の語りを見ていると、統合に必要な帰属意識の形成は、集団への愛着により成立しているように感じた。

今回の調査を通して各区の活動を垣間見た。どの区の人々も、昔ながらの踊りを守らなきゃいけないという意識は持っていた。しかし今後、伝統を守り維持するという目的ために、様々な人々を統合することは難しいかもしれない。毛利良幸さんのように、田中紀子さんのように、その地域に根ざして暮らしている人々による、日若踊をきっかけとしたひとつ一つの小さな心配りを出発点として、まずは地域の統合が図ることが重要ではないか。そして、世代を超えた人間同士の触れ合いや、新にこの地域に移り住むようになった人々に、地域や集団への愛着を持ってもらうことで、伝統的な民俗芸能の継承につながると考える。「ここに居場所がある」と感じることが大事なのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

謝辞

 私が日若踊と関わったのは、小学校入学以前からであり、気付けば約20年間踊り続けてきている。だが近年、伝承地域は少子高齢化によって人口が減少し、伝統芸能の継承が難しくなっている。2007(平成19)年、保存会のメンバーである福田猛さんが亡くなった。西田先生も体の不調を訴え、教えに出歩くことが難しくなった。以前は十数人練習に来ていた子供達も、今では数人になり、毎年必ず練習に来る子供も少なくなった。

 このような中、20年間関わってきた者として、日若踊の今を記録するというのが私の大きな目標であった。しかし調査を通して、20年間踊ってきたとはいえ、私が知っていることはただ踊ることだけでしかなかったことに気付かされた。当初、参与観察は十分だと高をくくっていた私だったが、様々な担い手の方と話をし、準備を手伝い、地域の現状を聞くことで、参加ではなく、参与観察となったことを実感した。また論文を作成する過程で、参加者としての視点を重視し過ぎていたため、地域の参加者以外の人に対する認識が欠けていたことに気付かされたのだ。そのため、日若踊の今を記録するという目的を掲げたものの、一面的で不十分な内容になってしまったことを、ここでお詫びしたい。

 このような未熟な私を、暖かく受け入れてくださった、地元の皆さん。そして毛利良幸さんを始めとした保存会の方々には、最初から最後まで大変お世話になりました。

 最後になりましたが、この卒論がどうにか完成へと至ったのは、常に助言をしてくださった鈴木教授、そして自主ゼミの度に声を掛けてくださった原準教授と原ゼミのメンバーの心強い声援のおかげです。本当にありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参照文献

 

井上弘

1984『福岡県無形文化財 直方(のおがた)「日若踊り」』

大島暁雄

2007『無形民俗文化財の保護―無形文化遺産保護条約にむけて―』

大森恵子

1998風流(ふりゅう)」佐々木宏幹他(監)『日本民俗宗教辞典』

香月靖晴

1990『遠賀川―流域の文化誌―』

加藤三太夫一純(号愚山)選

1786直方(のおがた)由来書」1880岡沢三中敬編『直方(のおがた)多賀神社御神幸』

坂田利平

1864『坂田利平稔吉履歴』

田村悟

2006「文化的景観の諸特性について」

直方(のおがた)

1950直方(のおがた)市勢要覧 昭和25年版』

1957直方(のおがた)市勢要覧 昭和28年版』

1957直方(のおがた)市勢要覧 昭和32年版』

1961直方(のおがた)市勢要覧 昭和36年版』

1978直方(のおがた)市勢要覧 昭和53年版』

1981直方(のおがた)市勢要覧 昭和56年版 市制施行50周年記念』

1988直方(のおがた)市勢要覧 昭和63年版』

2005『統計直方(のおがた) No.3940(平成1415年版)』

2008『統計直方(のおがた) No.44(平成19年版)』

直方(のおがた)市教育委員会

1958直方(のおがた)日若踊』

直方(のおがた)市編纂委員会

1978直方(のおがた)市史 下巻』

長谷川昭彦

1997『近代化のなかの村落―農村社会の生活構造と集団組織―』

福岡県教育委員会

1992『福岡県の民俗芸能―福岡県民俗芸能緊急調査報告書―』

森田三郎

1990『祭りの文化人類学』

 

村上福太郎

1928直方(のおがた)日若踊 復興記念写真帖』

山路興造

1991「ぼんおどり(盆踊)」山折哲雄(監)『世界宗教大辞典』

山近弥壮

1972『筑豊の民謡』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



[1]東蓮寺村(筑前国粥田庄新入東蓮寺村)

741(天平13)年諸国に国分寺尼寺建立の詔勅があった年に、行基僧正が来国錫干を留めた折建立したといわれる真言宗名刹東蓮寺があったところ。当時は寺名をそのまま村名にしていたらしく、当市内にも永満寺、安入寺、法華寺という地名が残っている。

東蓮寺から直方への改名の時期・由来については、1675(延宝3)年、1683(天和3)年、1692(元禄5)年と、書物によって諸説ある。                    (『直方日若踊』参照)

[2] 「やりなさいよ!」という意味の方言。

[3] 古町北区に在住する者、在住経験者、店舗を構えている者、及び趣旨に賛同する者の集まり。古町北区の行事に協力し、遂行することによって会員相互の親睦と自己の向上を図ることを目的としている。

(北親会会則より)

[4] 芸姑の取次ぎや玉代の精算などをするところ。また、江戸時代、新吉原で検番に属する、検番芸者の略。